5年目の想い(活動の原点)

2019年10月01日 00:00

2019年10月1日、会の立ち上げから丸5年を迎えました。

当初、「誰も活動しておられないのなら...」と農業の素人ながらダメ元でスタートした復活への取り組み。
その後多くの方のご期待とご支援を賜り、加工原料としての活用も進んでまいりました。
皆様には心より御礼を申し上げます。


活動の原点にあるのは、カボチャの栽培復活・ブランド化・産地化ということだけではありません。

戦時中〜戦後の食糧難の時代に、「備前黒皮南瓜」が貴重な食料であったこと。いま私の命があるのももしかしたら、このカボチャのおかげかもしれない... 地元の人々がそういった地域の歴史・カボチャへの恩を忘れてしまわぬよう、書籍などではなく形あるカボチャを受け継いでゆきたいとの願いです。


これまでの5年間は、過去の調査や栽培法・調理法の研究に重点をおいていましたが、今後はこのカボチャ自体が持つ「意味」をしっかり"伝える"ことにも取り組んでまいります。

今後とも応援よろしくお願い致します。


備前黒皮を復活させる会
     会長 安達勇治


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2016.8.28 のフェイスブック投稿より

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瀬戸内市にお住まいの77歳の方より伺ったお話をご紹介します。

「戦後、親がいろいろな物と交換してこのかぼちゃを手に入れ、食べさせてくれました。掌黄色になるほど食べ空腹を癒してくれました」


また、『むらの記録 師楽(昭和54年・山本満寿一氏著)』によると、

「備前黒皮、昔はこれ一本であった。一本にも統一にも、この一種の他はなかった。夏の朝、小高い丘の上に立てば、海に突き出た半島一円も、前島も、南瓜の花で真っ黄色にぬりつぶされた、壮観とも云いたいながめであった。打ちつづく段々畑は皆南瓜畑であった。日本中を股にかけて、花を求めて南から北へ移動する養蜂家も、蜜蜂の函を運んできていた。
何よりも助かったのは、戦時中あらゆる食料品の統制下にも、除外されて重要な命つなぎの一つであった。」

とあります。


年間5,500万トンの食料を輸入し、1/3にあたる1,800万トンを廃棄している日本。

この飽食の時代において、「備前黒皮南瓜」は単に"昔のかぼちゃ"というだけでなく、忘れてはならない郷土史を伝え、食べ物に、そしてご先祖さまに感謝する心を子どもたちに教えていくために復活・継承すべきもの、、そう考えています。

このカボチャのお陰で、いまこうやって私たちへと"いのち"が繋がっているのですから。

西洋カボチャの普及によって栽培が廃れたのは仕方がないとしても、地域から忘れ去られてしまったのは寂しいですね...

当時を知るかたがお元気なうちに、できる限りの活動をして、受け継いでゆきたいと思っています。