「備前なんきん」の思い出やお話をお聞かせください

2020年08月16日 18:00

「備前なんきん」が郷土とどのような繋がりであったのか、情報を集めております。些細なことでも構いませんのでご協力をお願いします。

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備前黒皮カボチャは 昭和10年~20年代、「備前南瓜(びぜんなんきん)」として全国でその名が知られていたそうです。

最盛期の昭和25年には、牛窓地区3,000戸の農家さんによって作付300ha、7~8月で500トンが生産され、自転車やリアカーに南瓜を積んで西大寺や備前市などで行商する姿が多く見られたといいます。


戦時中は、米の代用食としてイモ・カボチャの栽培が政府によって盛んに奨励されました。

岡山県下でも、主に牛窓地域で生産された「備前南瓜」が県民の命を繋いだ、、と記録が残っています。

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何よりも助かったのは、戦時中あらゆる食料品の統制下にも、除外されて重要な命つなぎの一つであった。

紀州のミカン船が(積み荷のない季節なので)相生から十数隻きて、粟利郷、鹿忍(唐戸港)、牛窓、前島などの港から積み出された。

販路を播州沿岸の港々から、大阪淡路方面まで拡げて、備前南瓜の名を広めてくれた。

戦時中は、各県の青果物の出荷を割り当てられたのを、岡山県分は、県東南部の数カ村で結成していた、牛窓町を中心とした、東備青果物出荷組合が全量を引き受けて、その任を完了したのは、この南瓜と後で言及する、馬鈴薯で賄ったほどであった。

※昭和54年山本満寿一 著『むらの記録 師楽』より

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「戦争の記憶が遠ざかる時、戦争が近づくという。食の記憶もしかり。食料事情はすでに非常時に近い。」※2020.8.15 日本農業新聞より


風化させてはならない郷土の歴史を、このカボチャと共に次の世代へ受け継いでゆきたいと思います。